ラファエル『道徳哲学』ノート(第五章)

 最近、ラファエルの道徳哲学についての入門書を再読した。数年前の学部生に頃に読んだはずなのだが、すっかり内容を忘れていたのだけど、改めて読むと、今の方が頭に入ってくる。昔は道徳や政治経済の話について、現在ほど関心は高くなかった。やはり「いつ読むか」というのが大事なのだろう。

 というわけで、頭の整理のために、読書ノートを書いていくことにした。といっても、本全体を詳細にノートにする気力もないので、自分にとって重要だと思う章を中心にした読書ノートになっている。

 

 凡例

  • 以下は、D. D. ラファエル『道徳哲学』(野田又夫・伊藤邦武 訳, 紀伊國屋書店, 1984)の要約と引用で再構成した読書ノート。
  • 原書:D. D. Raphael, Moral Philosophy (Oxford University Press, 1981 [first edition])
  • 引用または要約の際、邦訳該当ページは ( ) で示す。
  • 引用の際、邦訳内の傍点箇所は下線に変えた。自分の文章の中での強調箇所は太字で示す。

 以下は、第五章のノート。ここは功利主義についての批判的な検討をする章になっている。

 

 第五章 直観主義と、功利主義への反論

直観主義の議論

この説は一般に、道徳的判断は理性的「直観」あるいは理解の働きによってなされると説くところの、合理主義哲学者たちによって主張されてきた。(91) 

 

  • 「正しい行為の原理(principle)にはいくつかのものがあり、それら原理の各々が、諸々の正しい行為または義務からなる一つのクラスの、基準あるいは判定規準としての役割を果たす、と主張する」(91)。
  •  この意味で、「直観」は、分かる人にだけ分かるような「ひらめき」的なものではなく、自明のものとして即座に見てとれるような、「理解」(understanding)を意味する(91-2)。
  • 合理主義者たちは、「直観」という語で、演繹的推論における「自明的真理の理解」(92)を指していた。道徳的原理も、数学や論理学における自明な真理の直観からなる。
  • 直観主義者が挙げる自明な原理リスト(93):
    • (1) 他人の幸福を促進すること
    • (2) 他人に害を与えることを避けること
    • (3) 人々を正当に扱うこと( → 正義に関する原理)
      • ここに以下のいずれかの条件が含まれる:
      • (a)功績に応じて
      • (b)平等に
      • (c)必要に応じて
    • (4) 真理を語ること。
    • (5) 約束を守ること。
    • (6) 感謝を表すこと。
    • (7) 自分自身の幸福を推進すること(利口)
    • (8) 自分自身の徳を維持し推進すること(自尊)。
  • 直観主義者によれば、功利主義の誤りは、「未来の帰結」(94)の方を重視しがちな点にある。
  • また、功利主義は、「過去に依存するもの(功績に従った正義、約束を守ること、感謝)や、その効力が時間に関係しないもの(真理を語ること、平等と必要性による正義の概念)を無視している」(94-5)。

 

 

直観主義への二つの反論

 (1) 自明性のテーゼ (95):

 

  直観主義の主張は自明である。

    ⇅ 

  直観主義の原理は自明ではない(少なくともすべてが自明とは限らない)。

    • もし自明であるなら、明晰さに欠けることもないだろうし、また、直観主義論者によって意見が異なるということもないだろう。

 

 (2) 単一性のテーゼ(95-6):

  直観主義の原理は単一である。

    ⇅

  直観主義の原理は単一ではない。

  • 例:
    • 幸福を犠牲にすることによって、約束を守ることができる場合。
    • 約束を破ることによって、質問に対する真なる答えを語ることも場合。
      • → このように二つの原理の対立が考えられる以上、「普遍的」な原理ではあり得ない。
      • 「我々が必要とするのは、日常的な道徳的思惟の一般的な諸規則の根底にあって、対立する場合に我々が決定のために用いることのできるような、単一の根本的な原理なのである」(96)。
      • 功利主義によれば、最大幸福の原理は単一の原理である。
      • 直観主義の原理のリストから、(1)と(2)と(7)は、最大幸福の原理に含まれる。
      • また、正義の原理も有用性の問題である。

功利主義への反論

 (1) 有用性の原理は自明か

  • 何人かの功利主義者たちは、有用性の原理を自明であると考えた。
  • なぜなら、誰でも〈幸福を可能な限り増すことは正しい〉という点に同意するだろうから。
  • 他の功利主義者たちは、「有用性」の原理は容認するが、「自明性」に関することは要求しない。
    • なぜなら、功利主義者の多くは、「合理主義者」ではなく「経験主義者」だから。
    • 直観主義を含めて、合理主義者は、論理学・数学・倫理学のいずれにしても、「自明的真理を、理性的理解によってのみ獲得される世界についての純粋な知識の一種であると捉えている」(98)。
    •  功利主義者は、「認識論」においては経験主義者、「倫理」においては自然主義者である。すなわち、世界についての知識は感覚や感情の経験に依存する、と考える。
    • 論理学や数学における真理は、世界についての新しい情報を我々に与えない。人工的な規則に依存しているから、その真理は必然的かつ普遍的なのだ。
    • それゆえ、有用性の原理はこうした考え方を含まない(98)。

 

 (2) 功利主義は「単一の根本的な原理」を与えているか

  • 功利主義によれば、「正しい行為とは最大数の者にとっての最大幸福を産む行為である」(99)。
  • しかし、この主張には以下の二つの原理が含まれており、二つは矛盾する可能性がある:
  • (a)「可能な限り多くの幸福を産み出すこと」
  • (b)「可能な限り広くそれを分配すること」(99)
    • 例:
      • 私が4万円を持っていると仮定する。私はそれを二人の老人に2万円ずつ与え、温かいコートでも買うことを可能にするべきだろうか。それとも、200人の老人に200円ずつ与え、安い紅茶1杯でも買うことを可能にするべきだろうか。
      • 前者の方が産み出される幸福の総量は大きいのだろうか。しかし、後者と比べると、前者はたかだか二人が影響を受けたにすぎない。最大幸福の原理(有用性の原理)に従えば、どちらを選ぶべきなのか。

 

  • 「最大幸福の原理」は「有用性の原理」と「正義の原理」の合成原理である。言い換えると、「集積(aggregation)の原理に分配(distribution)の原理が加えられたもの」(100)である。
    • 有用性の原理 = 集積の原理 + 分配の原理(平等主義的正義の原理) 
  • 有用性と正義との対立の例:
    • 国庫政策と賃金政策:
      • 政府は共同体全体の幸福を最大化するための報酬金を与えるような政策をとるべきなのか。それとも、再分配によって、より大きな公平さを産み出すような政策をとるべきなのか。
    • 教育政策:
      • 政府は、「国益のために」工学部の学生により多くの分配をするべきなのか。それとも、公平のためにあらゆる分野において同じように分配すべきなのか。
    • 徴用制度:
      • 兵の招集は選別的に実施し、主要産業や中枢の労働者の力を奪わないようにするべきなのか。それとも、それは、すべての者に無差別に適用されるべきなのか。
  • それゆえ、功利主義は単一の原理を持っているように見えるが、常に生じているこうした対立を不明瞭にしている。
    • とはいえ、より対立要素の多い直観主義に比べると改良されている。

したがって、功利主義は、直観主義が直面した第一の障害を完全に乗り越えるわけではなく、第二の障害では疑いもなく失敗している。(101)

 

 (3) 功績に基づく分配はどうか? (有用性と正義の対立)

  • 直観主義のリストで、公正に関する原理(分配の原理)は以下を含んでいた(101):
    • (a) 「平等な(equal)分配」
    • (b) 「功績(merit)による分配」
    • (c) 「必要(need)による分配」
  • 功利主義はこのうち、(a)=平等主義的正義の原理を含む。
  • しかし、(c)は含まない(この点は第七章で議論される)。
  • 功利主義によれば、(b)の功績による正義の概念が有用性に基づく(101)。
    • 報償に値する行為は、有用であるからこそ、その価値が認められ、報償が与えられる。
    • 反対に、非難に値する行為は、有害な行為であるからこそ、それを抑止するべきである。そのために刑罰が有用となる。
    • とはいえ、刑罰に関するこうした考え方は「正義の誤用」(104)という可能性を排除しない。
    • すなわち、警察が、将来起こりうる犯罪の抑止効果を優先して、無実な人間の処罰や有罪宣告を正当化してしまう、という可能性も含む(冤罪など)。
    • しかし、これは正義ではない。

ここで憂慮すべきことは、一個人に対する不正義である。(105)

    • 抑止効果のために処罰・有罪宣告を与えるという不正義は、「後日誤謬が知られた場合の、一般の安全性の減少ということに存する、ということを含意する」(105)。
    • しかし、もし上のような正義の誤用(処罰や有罪宣告など)がある場合、この不正義は、誤用がなされた時点での、当人に対してなされたことにある。

心配すべき付随的な、しかし極めて二次的な理由は、正義の誤用が発覚するとしたら、その時点での、それの社会的効果であるが、しかしそれは付随的であり、それは二次的なものである。それは、不正義があったというそれに先行する認識に依存しており、それ自身で、過去においてなされたことの不正義な性格というものを構成したり、あるいは産み出すものではない。(105)

 

  • 功利主義が無実の者に不正を加える可能性として、別の例:
    • アガメムノンは遠征地において激しい嵐に会っていた。彼は、占い師の教えに従い、嵐を鎮めるために、娘のイピゲネイアを犠牲にした。アガメムノンは、社会的有用性のために娘を殺したのである。

 

  • 「規則功利主義」による応答(107-8)
    • これに対し、功利主義の内部から、こうした不正義を排除する考え方もできる。
    • 功利主義はあくまで、一般的な規則(general rule)を尊重することの有用性についての考え方である。
    • ある個人に対して、上記のような正義の誤用を行なうことが正当化される場合、別の個人に対しても、そのようなことを行なうことは正当化されるだろう。
    •  しかし、これは「罪を犯した者のみが罰せられるべきであるという、一般的に有用な規則に対する尊重を損なうことであろう」(108)という点で、不正義である。
    • 一般的規則に従うことの有用性という観点に立つのが、「規則功利主義(Rule-utilitarianism)と呼ばれる立場である(108)。 
    • とはいえ、規則を破ることが有用でありうる場合もある。
    • 約束はあらゆる状況において守られるべきである、とまでは功利主義は言わない。
    • しかし、例外的な場合があるからといって、通常は規則に従うということが有用でなくなるわけではない。

例外的場合には、まさしくそれが例外的事例であり、普通の事態の展開とは異なっているゆえに、規則からの逸脱が正当化されるのである。(109)

    • したがって、有用ではあるものの不道徳な場合がある。すなわち、「有用性は道徳性の唯一の規準ではあり得ないのである。」(109)

 

 (4) 功利主義は人格的関係を軽視する

  • 功利主義への反論:
    • アガメムノンは単に無実の人を犠牲にしただけではなく、自分の娘を犠牲にした。これが有用性の原理を理由として正当化される。
    • 功利主義は、道徳的義務のもつしばしば極めて人格的な性格、すなわち、それが特別の人格的な関係に基づいているという事実を無視している。」(109)

フェヌロン大司教の宮殿が火事になり、あなたは中に閉じ込められている二人、すなわち大司教と、たまたまあなたの母でもあるところの彼の部屋係の二人のうち、一人しか救助する時間がないと想定してみよ[...]。フェヌロンが大司教および著作家として有能な者であること、つまり彼の同胞にとって極めて有用であることは、よく知られている。部屋係は限られた能力の人間であり、彼女の直接の家族---彼女の息子である、あなた自身を含む---以外の者によっては、おしまれることはないであろう。あなたは二人のうち、どちらを救助すべきであろうか。自然の傾向として、あなたはあなたの母親の方を選ぶであろう。また疑いもなく、そのような選択を迫られたほとんどすべての者が、じっさいに、フェヌロンではなくその母を救助することであろう[...]。しかし、正しい行為は、フェヌロンの方を救助することであろう、というのも、その方が人類にとってより多くの利益をもたらすであろうからである[...]。(109-110)

  • 功利主義によって、道徳は、最大多数の最大幸福である。
  • それゆえ、例えば、世界人口の増加は、幸福な人々の平均人数を増やすから、どんどん人口が増えた方がよいことになる。

それゆえ、功利主義によるならば、受胎調節に反対し、同法に向かって「産めよ増やせよ」を奨励することは、明らかに一つの義務である。しかしこれは、発達した文明の道徳的感情とは明瞭に反対である。(112)

問題は、功利主義が、幸福にされたり不幸にされたりするであろう(人格)について考えるかわりに、単に抽象的な快や幸福の量について考えるというところにある。もし、道徳性の目標は人々を幸福にすることにあると言うのであれば、そこからは、人々の数を増やすことが、現存する人々の生の質よりも優先する、と言うことは帰結しないであろう。(112)

功利主義が幸福の量ということのみにしがみついている点において誤っている、ということ批判はしばしばなされてきた次のような批判、すなわち、幸福の量を計算するという功利主義的観念は実行不可能である、という批判から区別される必要がある。この批判そのものは誤解である。選択されるべき行為が産み出すであろう幸福または不幸の量について、厳密な計算を行うことができないということは正しい。しかし、人ばしばしばおおよそ概算をすることができる。というよりも、より重要なことは、人はそれをしなければならないということである。(112-113)

  • 実際の生活上、行為の大まかな帰結について考慮するし、そうしなければならない場面は多くあろう。

功利主義が間違えている点は、幸福の概念を人格の概念に従属的なものであると考えるかわりに、幸福の量の概算にとびついたところにある。幸福が倫理学にとって重要であるのは、それが人格の主要な目標であるからである。(113)