▼ 本
- パース、ジェイムズ、デューイ 『プラグマティズム古典集成』植木豊 訳, 作品社, 2014. ・・・【読書中】
- アーサー・コナン・ドイル『シャーロック・ホームズの冒険』日暮雅通 訳, 光文社文庫, 2006. ・・・【読書中】
- 鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるのか:創発から見る認知の変化』ちくまプリマー新書, 2022.
- 朱喜哲『100分de名著:リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』NHK出版, 2014.
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▼ 文学
訳=野矢茂樹・高村夏輝・法野谷俊哉, 春秋社, 2004年.
諸々の倫理学説を教示する本ではないが、実際の倫理的問題に向き合う際の姿勢について書かれている。カタイ学術書を勉強する前に、あるいは勉強している途中に読むと、頭がほぐれるかもしれない。
道徳に関するジレンマや対立に関する箇所が興味深かったので、以下にメモ。
著者は、道徳的ジレンマについてしばしば起こる傾向、すなわち、道徳的な意見や原理におけえる衝突を描くことに重点を置くあまり問題を過度に単純化してしまうような傾向に対して、注意を促している。
たとえば、道徳的発達を調査するために、心理学者コールバーグによって作られた道徳的ジレンマが紹介されている(p. 51以降)。
要点だけ言うと、こうだ。
死にかけた妻を救うために薬が必要なのだが、ハインツにはその薬が高価すぎて買うことはできない。ハインツは薬局に押し入って薬を盗み出すべきなのか、または、そうせずに妻が死ぬのを待つべきなのか。そういうジレンマである。
しかし、それ以外の選択肢の可能性を考えてはいけないのだろうか。コールバーグは否定的なようだ。このジレンマの目的は、二つを衝突させることによって倫理学上の諸原理の衝突を提示することにある。著者(ウエストン)によれば、コールバーグの調査では、この目的をつかめずに別の選択肢を考えてしまった人は「未成熟」だとされたようだ(p. 70)。
単に哲学的な原理を浮かび上がらせるためだけなら、他の選択肢を排除するようにさらに工夫することも確かにできる。また、実際にジレンマ的な状況がありうることも確かだ。著者はそう断ったうえで、以下のように述べている。
しかし私の論点は、言い立てられた道徳的ジレンマを何の疑問もなく受け入れるのは、少し軽率すぎるということだ。まるで、とにかくジレンマこそが道徳的問題の唯一適切で自然な形式である、そう言わんばかりだ。創造的に考えることが、スタートする前から締め出されている。狭く限定された問題しか残されていないのだから、狭く限定された答えしか手に入らないのも当然だ。(p. 53)
この後の注の中でも著者は、ただの学説上の衝突やパズルを示すことだけが目的であれば、ジレンマの選択肢が限定されているのは自然でありうるが、それでもしばしば他の選択肢が存在する、という点を強調している。ここで、アメリカのプラグマティスト、ジョン・デューイに言及していたのが興味深い。
道徳の問題が、すっきりと整理されたパズルのごときものだとすれば、創造的に考え直すのは「的を外す」ことだろう。しかしプラグマティズムの哲学者たちによれば、道徳の問題はそんなすっきり整理されたものではなく、ある緊張が生じた領域であり、その領域は広く、どこまでその緊張が及ぶのかがはっきりしていない。デューイはそれを「問題状況」と呼ぶ。本当は、問題状況に「解決」など望むべくもないのだが、まさにそれと同じ理由によってチャンスでもある。創造的に問題に取り組むこと——問題をもっと扱いやすく、チャンスを生み出すようなものにしようと努めること——、これこそもっとも賢明な対応であり、しばしば唯一の賢明な対応となる。 (pp. 69-70)
デューイの引用は The Moral Writings of John Dewey (James Couinlock, ed., Macmillian, 1976)から、とのこと。
これに関連して、価値観や道徳をめぐる対立において「二極化」を避けるべき、という議論が出される。ここでも、著者はデューイを引き合いに出している。
道徳をめぐる対立のほとんどは正真正銘の対立である。本当の問題を捉えそこねることによって生じたニセの対立ではないのだ。両方の立場、いや、すべての立場に見せかけただけではない善さが含まれている。哲学者デューイの言葉を引こう。「道徳をめぐる重大な対立を、善であると知られているものと明確な悪との対立として捉え、不確かさを岐路に立たされた者の意志の内にのみ見ようとしうるのは、ただ独善的な者だけである。論じるに値する対立のほとんどは、いま現に納得しているもの、あるいはこれまで納得してきたもの、そうしたものごとの間の対立であり、善と悪との対立ではない。」 (p. 74)
ちなみに、これはデューイの『確実性の探求』(The Quest for Certainty, 1929)からの引用だ。これは現在では『デューイ著作集4 確実性の探求——知識と行為の関係についての研究』(加賀裕郎 訳, 東京大学出版会, 2018)が入手しやすく、その216ページに書かれている。
タイトル通りの入門書だが、「哲学思想としてのプラグマティズム」を主題にしている。主に探究・認識・科学・真理・論理・数学・メタ哲学(哲学とは何か、など)といった話題が念頭にあるのだろう。
哲学思想としてのプラグマティズムは、当然ながらわれわれの認識の正しさや真理性の特徴を明らかにすることを課題とする。しかし、この課題を果たすためにこの思想が行うのは、認識の真理性の絶対的な根拠を求めることでもなければ、その可能性の理由を定義することでもない。プラグマティズムが問おうとするのは、真理を求めようとする場面にあって、われわれ人間が採用するべき対話の形式や、問答の枠組みのあり方である。それは真理や価値の最終的な決定であるよりも、その「追求」のスタイルの反省である限りにおいて、開かれた柔軟な哲学という特徴をもっており、そしてまさにこの特徴のゆえに、多くの哲学者たちのアイデアを受け入れ、吸収する力をもってきたのである。(p. 11)
類書で定番の教科書としては、魚津郁夫『プラグマティズムの思想』(ちくま学芸文庫、2006)がある。魚津の本では、アメリカの文化、ソローやエマソンなどの思想から入り、パース、ジェイムズ、ミード、デューイ、クワイン、ローティまでを扱っている。また、テクストからの引用が豊富にあり、扱う範囲も宗教・倫理・政治思想などと幅広い。
伊藤の本では、第1章で、プラグマティズムの「源流」として、パース、ジェイムズ、デューイを紹介している。
第2章では、20世紀半ばから1980年代までの流れとして、クワイン、ローティ、パトナムを紹介している。ローティまでは魚津の本と重なる。
第3章は、ローティ以降の現代プラグマティズムの流れとして、ブランダム、マクダウェル、マクベス、ティエルスラン、ハーク、ミサックを扱っている。この辺りの議論を扱っている新書はあまり知らないので、けっこう有益だ。
カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況 他一篇』(樋口陽一 訳, 岩波文庫, 2015)
▼ 翻訳はかなり読みやすいと思う。やはりナチス御用学者とされているだけあり、『政治的なものの概念』(原書1932年)と同様、「危険な思想」の雰囲気は確かに漂っている。 とはいえ、毒の成分を知れてこそ解毒剤を作れるというものだろう。訳者もこう言う:
「デモクラシーにとって、『危険な思想家』一般が問題なのではない。危険でない思想は思想に値しないだろう。そうではなくて、怨恨、憎悪を理論の名のもとに説くことが、問題なのである。」(174)
▼ 表題の論文よりも、後半の「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」の方がわかりやすい。
▼ 前半の論文では、「議会主義の究極の精神的基礎」(33)は何か、という点が主要な問題となる。今日、「民主主義」と聞くと、選挙、議会における討論などをイメージするだろう。しかし、それは民主主義と本質的に結びついているわけではない。この点が見どころの一つだと思う。
▼ 19世紀以降、民主主義の概念が、君主制の否定・社会主義・軍国主義・平和主義、そして自由主義、などの流れと結びついてきた。それゆえ、シュミットによれば、民主主義の概念は確定的ではない。民主主義の概念は、概念的に異なる種々の概念と結びつき「内容的に一義的な目標を決してもたない」という点で、「本質的に論争的な概念」(18)であるという。
▼ 民主主義は、究極的には、「同一性」という概念に基づいている、とシュミットは主張する。民主主義とは「支配者と被支配者との同一性」(23)であると定義される。選挙は「国家と国民の同一性を実現する努力のひとつの徴候」(22-3)に過ぎない。「論理的にはすべての民主主義の論拠が一連の同一性」(23)が前提にあるという。
▼ 一方、「議会主義の究極の精神的基礎」(33)は何か。議会主義(≒自由主義)は民主主義と等しいわけではない(34-5)。シュミットは「議会主義」と「自由主義」をほぼ同義で使っているように思う。議会主義の本質は、(1)言論・出版・集会などの自由によって支えられた「公開の討論」、そして、(2)権力の多元性・立法権と執行権の対立などに支えられた「権力分立」、にあるという(35-47)。
▼ やはり目を引くのは、民主主義が「独裁」に対立する概念ではない、という議論だろう。独裁とは「権力分立の廃棄、すなわち憲法の廃棄、すなわち立法権と執行権の分離の廃棄」(47)である。独裁の対立概念は、議会主義であり、民主主義ではない。シュミットによれば、議会主義と民主主義は概念的には分離可能だから、「近代議会主義とよばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして、独裁は決して民主主義の決定的な対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物でない。」(32)
▼ 以下、印象に残ったところの抜粋:
「議会主義への信念、討論による統治(government by discussion)への信念は、自由主義の思想界に属する。それは民主主義に属するのではない。この両者、自由主義と民主主義が、たがいに区別されなければならず、そうすることによって、現代の大衆民主主義をつくりあげている異質の混成物が、認識されることになる。
あらゆる実質的な民主主義は、等しいものが等しくあつかわれるだけでなく、その不可避的な帰結として、等しからざるものが等しくあつかわれぬ、ということに基づいている。それゆえ、民主主義にとっては、必然的に、まずもって同質性が必要であり、ついで——その必要があれば——異質なるものの排除あるいは殲滅が必要である。[…] 民主主義の政治的な力は、無縁かつ等しからざるもの、同質性をおびやかすものを排除し遠ざけうる、というところに示されている。」(139)
「万人の万人との自由な契約という思想は、対立する利害、差異および利己主義を前提とするまったく異なった思想界、すなわち自由主義から生ずる。それに反し、ルソーが構成したような「一般意思」は、同質性のうえにもとづいている。それのみが、首尾一貫した民主主義である。国家は、『社会契約論』に従えば、[…] 契約ではなく、本質的には同質性にもとづいている。この同質性から、治者と被治者との民主主義的な同一性が生ずるのである。」(149)
「現代の大衆民主主義は、民主主義の危機とは区別されてしかるべき議会主義の危機にみちびく。[…] 民主主義的な同一性ということをまじめに考えるならば、危急の場合には、どんな仕方であれ表明された抗し難い国民意思の唯一決定性の前には、他のいかなる憲法上の制度も、維持されない。とりわけ、独立の議員たちの討論にもとづく制度というものは、そのような国民意思に対抗しては、独立の存在理由をもたず、討論への信念が民主主義的ではなく自由主義的な起源をもつものであるからして、なおのことそうである。」(151)
「一億人の私人の一致した意見は、国民意思でもなければ公開の意見〔公論〕でもない。国民意思は、歓呼、喝采(acclamatio)によって、自明の反論しがたい存在によって、ここ半世紀のあいだあれほど綿密な入念さをもってつくりあげられてえきたところの統計的装置によってと同じく、また、それよりいっそう民主主義的に、表明されうるのである。[…] 技術的意味においてだけではなく本質的な意味においても直接的な民主主義を前にしては、自由主義の思考過程から生まれた議会は、人為的な機構にみえるのであり、それに対し、独裁やカエサル主義の方法は、国民の喝采によって担われうるだけでなく、民主主義的な実質と力の直接的な表現でもありうるのである。」(153-4)
最近、ラファエルの道徳哲学についての入門書を再読した。数年前の学部生に頃に読んだはずなのだが、すっかり内容を忘れていたのだけど、改めて読むと、今の方が頭に入ってくる。昔は道徳や政治経済の話について、現在ほど関心は高くなかった。やはり「いつ読むか」というのが大事なのだろう。
というわけで、頭の整理のために、読書ノートを書いていくことにした。といっても、本全体を詳細にノートにする気力もないので、自分にとって重要だと思う章を中心にした読書ノートになっている。
凡例:
以下は、第五章のノート。ここは功利主義についての批判的な検討をする章になっている。
▼ 直観主義の議論
この説は一般に、道徳的判断は理性的「直観」あるいは理解の働きによってなされると説くところの、合理主義哲学者たちによって主張されてきた。(91)
▼ 直観主義への二つの反論
(1) 自明性のテーゼ (95):
直観主義の主張は自明である。
⇅
直観主義の原理は自明ではない(少なくともすべてが自明とは限らない)。
(2) 単一性のテーゼ(95-6):
直観主義の原理は単一である。
⇅
直観主義の原理は単一ではない。
▼ 功利主義への反論
(1) 有用性の原理は自明か?
(2) 功利主義は「単一の根本的な原理」を与えているか?
したがって、功利主義は、直観主義が直面した第一の障害を完全に乗り越えるわけではなく、第二の障害では疑いもなく失敗している。(101)
(3) 功績に基づく分配はどうか? (有用性と正義の対立)
ここで憂慮すべきことは、一個人に対する不正義である。(105)
心配すべき付随的な、しかし極めて二次的な理由は、正義の誤用が発覚するとしたら、その時点での、それの社会的効果であるが、しかしそれは付随的であり、それは二次的なものである。それは、不正義があったというそれに先行する認識に依存しており、それ自身で、過去においてなされたことの不正義な性格というものを構成したり、あるいは産み出すものではない。(105)
例外的場合には、まさしくそれが例外的事例であり、普通の事態の展開とは異なっているゆえに、規則からの逸脱が正当化されるのである。(109)
(4) 功利主義は人格的関係を軽視する
フェヌロン大司教の宮殿が火事になり、あなたは中に閉じ込められている二人、すなわち大司教と、たまたまあなたの母でもあるところの彼の部屋係の二人のうち、一人しか救助する時間がないと想定してみよ[...]。フェヌロンが大司教および著作家として有能な者であること、つまり彼の同胞にとって極めて有用であることは、よく知られている。部屋係は限られた能力の人間であり、彼女の直接の家族---彼女の息子である、あなた自身を含む---以外の者によっては、おしまれることはないであろう。あなたは二人のうち、どちらを救助すべきであろうか。自然の傾向として、あなたはあなたの母親の方を選ぶであろう。また疑いもなく、そのような選択を迫られたほとんどすべての者が、じっさいに、フェヌロンではなくその母を救助することであろう[...]。しかし、正しい行為は、フェヌロンの方を救助することであろう、というのも、その方が人類にとってより多くの利益をもたらすであろうからである[...]。(109-110)
それゆえ、功利主義によるならば、受胎調節に反対し、同法に向かって「産めよ増やせよ」を奨励することは、明らかに一つの義務である。しかしこれは、発達した文明の道徳的感情とは明瞭に反対である。(112)
問題は、功利主義が、幸福にされたり不幸にされたりするであろう人(人格)について考えるかわりに、単に抽象的な快や幸福の量について考えるというところにある。もし、道徳性の目標は人々を幸福にすることにあると言うのであれば、そこからは、人々の数を増やすことが、現存する人々の生の質よりも優先する、と言うことは帰結しないであろう。(112)
功利主義が幸福の量ということのみにしがみついている点において誤っている、ということ批判はしばしばなされてきた次のような批判、すなわち、幸福の量を計算するという功利主義的観念は実行不可能である、という批判から区別される必要がある。この批判そのものは誤解である。選択されるべき行為が産み出すであろう幸福または不幸の量について、厳密な計算を行うことができないということは正しい。しかし、人ばしばしばおおよそ概算をすることができる。というよりも、より重要なことは、人はそれをしなければならないということである。(112-113)
功利主義が間違えている点は、幸福の概念を人格の概念に従属的なものであると考えるかわりに、幸福の量の概算にとびついたところにある。幸福が倫理学にとって重要であるのは、それが人格の主要な目標であるからである。(113)