道徳の問題をパズル化しないこと(読書メモ:『ここからはじまる倫理』)

アンソニー・ウエストン『ここからはじまる倫理』

訳=野矢茂樹・高村夏輝・法野谷俊哉, 春秋社, 2004年.

ここからはじまる倫理

 諸々の倫理学説を教示する本ではないが、実際の倫理的問題に向き合う際の姿勢について書かれている。カタイ学術書を勉強する前に、あるいは勉強している途中に読むと、頭がほぐれるかもしれない。

 道徳に関するジレンマや対立に関する箇所が興味深かったので、以下にメモ。

 著者は、道徳的ジレンマについてしばしば起こる傾向、すなわち、道徳的な意見や原理におけえる衝突を描くことに重点を置くあまり問題を過度に単純化してしまうような傾向に対して、注意を促している。

 たとえば、道徳的発達を調査するために、心理学者コールバーグによって作られた道徳的ジレンマが紹介されている(p. 51以降)。

 要点だけ言うと、こうだ。

 死にかけた妻を救うために薬が必要なのだが、ハインツにはその薬が高価すぎて買うことはできない。ハインツは薬局に押し入って薬を盗み出すべきなのか、または、そうせずに妻が死ぬのを待つべきなのか。そういうジレンマである。

 しかし、それ以外の選択肢の可能性を考えてはいけないのだろうか。コールバーグは否定的なようだ。このジレンマの目的は、二つを衝突させることによって倫理学上の諸原理の衝突を提示することにある。著者(ウエストン)によれば、コールバーグの調査では、この目的をつかめずに別の選択肢を考えてしまった人は「未成熟」だとされたようだ(p. 70)。

 単に哲学的な原理を浮かび上がらせるためだけなら、他の選択肢を排除するようにさらに工夫することも確かにできる。また、実際にジレンマ的な状況がありうることも確かだ。著者はそう断ったうえで、以下のように述べている。

しかし私の論点は、言い立てられた道徳的ジレンマを何の疑問もなく受け入れるのは、少し軽率すぎるということだ。まるで、とにかくジレンマこそが道徳的問題の唯一適切で自然な形式である、そう言わんばかりだ。創造的に考えることが、スタートする前から締め出されている。狭く限定された問題しか残されていないのだから、狭く限定された答えしか手に入らないのも当然だ。(p. 53)

 この後の注の中でも著者は、ただの学説上の衝突やパズルを示すことだけが目的であれば、ジレンマの選択肢が限定されているのは自然でありうるが、それでもしばしば他の選択肢が存在する、という点を強調している。ここで、アメリカのプラグマティスト、ジョン・デューイに言及していたのが興味深い。

道徳の問題が、すっきりと整理されたパズルのごときものだとすれば、創造的に考え直すのは「的を外す」ことだろう。しかしプラグマティズムの哲学者たちによれば、道徳の問題はそんなすっきり整理されたものではなく、ある緊張が生じた領域であり、その領域は広く、どこまでその緊張が及ぶのかがはっきりしていない。デューイはそれを「問題状況」と呼ぶ。本当は、問題状況に「解決」など望むべくもないのだが、まさにそれと同じ理由によってチャンスでもある。創造的に問題に取り組むこと——問題をもっと扱いやすく、チャンスを生み出すようなものにしようと努めること——、これこそもっとも賢明な対応であり、しばしば唯一の賢明な対応となる。 (pp. 69-70)

 デューイの引用は The Moral Writings of John Dewey (James Couinlock, ed., Macmillian, 1976)から、とのこと。

 これに関連して、価値観や道徳をめぐる対立において「二極化」を避けるべき、という議論が出される。ここでも、著者はデューイを引き合いに出している。

道徳をめぐる対立のほとんどは正真正銘の対立である。本当の問題を捉えそこねることによって生じたニセの対立ではないのだ。両方の立場、いや、すべての立場に見せかけただけではない善さが含まれている。哲学者デューイの言葉を引こう。「道徳をめぐる重大な対立を、善であると知られているものと明確な悪との対立として捉え、不確かさを岐路に立たされた者の意志の内にのみ見ようとしうるのは、ただ独善的な者だけである。論じるに値する対立のほとんどは、いま現に納得しているもの、あるいはこれまで納得してきたもの、そうしたものごとの間の対立であり、善と悪との対立ではない。」 (p. 74)

 ちなみに、これはデューイの『確実性の探求』(The Quest for Certainty, 1929)からの引用だ。これは現在では『デューイ著作集4 確実性の探求——知識と行為の関係についての研究』(加賀裕郎 訳, 東京大学出版会, 2018)が入手しやすく、その216ページに書かれている。