読書メモ:シュミット『現代議会主義の精神史的状況 他一篇』

現代議会主義の精神史的状況 他一篇 (岩波文庫)

カール・シュミット『現代議会主義の精神史的状況 他一篇』(樋口陽一 訳, 岩波文庫, 2015)

▼ 翻訳はかなり読みやすいと思う。やはりナチス御用学者とされているだけあり、『政治的なものの概念』(原書1932年)と同様、「危険な思想」の雰囲気は確かに漂っている。 とはいえ、毒の成分を知れてこそ解毒剤を作れるというものだろう。訳者もこう言う:

「デモクラシーにとって、『危険な思想家』一般が問題なのではない。危険でない思想は思想に値しないだろう。そうではなくて、怨恨、憎悪を理論の名のもとに説くことが、問題なのである。」(174)

▼ 表題の論文よりも、後半の「議会主義と現代の大衆民主主義との対立」の方がわかりやすい。

 

自由主義と民主主義の概念的区別

▼ 前半の論文では、「議会主義の究極の精神的基礎」(33)は何か、という点が主要な問題となる。今日、「民主主義」と聞くと、選挙、議会における討論などをイメージするだろう。しかし、それは民主主義と本質的に結びついているわけではない。この点が見どころの一つだと思う。

▼ 19世紀以降、民主主義の概念が、君主制の否定・社会主義軍国主義・平和主義、そして自由主義、などの流れと結びついてきた。それゆえ、シュミットによれば、民主主義の概念は確定的ではない。民主主義の概念は、概念的に異なる種々の概念と結びつき「内容的に一義的な目標を決してもたない」という点で、「本質的に論争的な概念」(18)であるという。

▼ 民主主義は、究極的には、「同一性」という概念に基づいている、とシュミットは主張する。民主主義とは「支配者と被支配者との同一性」(23)であると定義される。選挙は「国家と国民の同一性を実現する努力のひとつの徴候」(22-3)に過ぎない。「論理的にはすべての民主主義の論拠が一連の同一性」(23)が前提にあるという。

▼ 一方、「議会主義の究極の精神的基礎」(33)は何か。議会主義(≒自由主義)は民主主義と等しいわけではない(34-5)。シュミットは「議会主義」と「自由主義」をほぼ同義で使っているように思う。議会主義の本質は、(1)言論・出版・集会などの自由によって支えられた「公開の討論」、そして、(2)権力の多元性・立法権と執行権の対立などに支えられた「権力分立」、にあるという(35-47)。

▼ やはり目を引くのは、民主主義が「独裁」に対立する概念ではない、という議論だろう。独裁とは「権力分立の廃棄、すなわち憲法の廃棄、すなわち立法権と執行権の分離の廃棄」(47)である。独裁の対立概念は、議会主義であり、民主主義ではない。シュミットによれば、議会主義と民主主義は概念的には分離可能だから、「近代議会主義とよばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして、独裁は決して民主主義の決定的な対立物でなく、民主主義は独裁への決定的な対立物でない。」(32)

▼ 以下、印象に残ったところの抜粋:

「議会主義への信念、討論による統治(government by discussion)への信念は、自由主義の思想界に属する。それは民主主義に属するのではない。この両者、自由主義と民主主義が、たがいに区別されなければならず、そうすることによって、現代の大衆民主主義をつくりあげている異質の混成物が、認識されることになる。
 あらゆる実質的な民主主義は、等しいものが等しくあつかわれるだけでなく、その不可避的な帰結として、等しからざるものが等しくあつかわれぬ、ということに基づいている。それゆえ、民主主義にとっては、必然的に、まずもって同質性が必要であり、ついで——その必要があれば——異質なるものの排除あるいは殲滅が必要である。[…] 民主主義の政治的な力は、無縁かつ等しからざるもの、同質性をおびやかすものを排除し遠ざけうる、というところに示されている。」(139)

「万人の万人との自由な契約という思想は、対立する利害、差異および利己主義を前提とするまったく異なった思想界、すなわち自由主義から生ずる。それに反し、ルソーが構成したような「一般意思」は、同質性のうえにもとづいている。それのみが、首尾一貫した民主主義である。国家は、『社会契約論』に従えば、[…] 契約ではなく、本質的には同質性にもとづいている。この同質性から、治者と被治者との民主主義的な同一性が生ずるのである。」(149)

「現代の大衆民主主義は、民主主義の危機とは区別されてしかるべき議会主義の危機にみちびく。[…] 民主主義的な同一性ということをまじめに考えるならば、危急の場合には、どんな仕方であれ表明された抗し難い国民意思の唯一決定性の前には、他のいかなる憲法上の制度も、維持されない。とりわけ、独立の議員たちの討論にもとづく制度というものは、そのような国民意思に対抗しては、独立の存在理由をもたず、討論への信念が民主主義的ではなく自由主義的な起源をもつものであるからして、なおのことそうである。」(151)

「一億人の私人の一致した意見は、国民意思でもなければ公開の意見〔公論〕でもない。国民意思は、歓呼、喝采(acclamatio)によって、自明の反論しがたい存在によって、ここ半世紀のあいだあれほど綿密な入念さをもってつくりあげられてえきたところの統計的装置によってと同じく、また、それよりいっそう民主主義的に、表明されうるのである。[…] 技術的意味においてだけではなく本質的な意味においても直接的な民主主義を前にしては、自由主義の思考過程から生まれた議会は、人為的な機構にみえるのであり、それに対し、独裁やカエサル主義の方法は、国民の喝采によって担われうるだけでなく、民主主義的な実質と力の直接的な表現でもありうるのである。」(153-4)